FC2ブログ

「ミトラの密儀」2-帝国への伝播-



ミトラ像


 

ミトラス教は、いつ、どのようにしてローマに流布されたのでしょうか。

 

ミトラス教に関する最古の記録は帝政ローマのギリシャ人著述家プルタルコス

の「ポンペイウス伝」にあるといわれています。これによるとポンペイウス

時代(紀元前106年~前48年)、ミトラス教はキリキアの海賊たちが信仰した

密儀宗教の中でも特に重要なものであったが、海賊たちはポントス王国の

ミトリダテスを支援し、広範囲にわたって海賊行為を働いたため、

67年、ポンペイウスによって掃討されたということです。

 

F・キュモンは、ローマ兵たちは、前67年にポンペイウスによって征服

されたキリキアの海賊によってミトラの密儀に入信したというプルタルコス

の情報は決して信ずるに足らぬものではない。共和制の末期以来、ペルシャ

の神は首都の雑多な平民階級の中に多少の信者を見出したということはあり

えた事態である。ただ、異国の儀式を執り行う信徒団体の群れに紛れて、

ミトラの礼拝者たちの小グループは注意を惹かなかった。だが、ようやく、

1世紀の終わり頃、ミトラはローマで話題にのぼるようになった、と

述べています。

 

つまり、ミトラス教の主要な布教者は軍隊なのであり、それは何にもまして

兵士たちの宗教であり、一位階の入信者たちに<兵士(ミレス)>という

名前が与えられたのにも理由のないことではないとしています。

 

ローマ兵の構成員をみると、遠方に派遣された現地軍に代わって外部から召集

された兵士の中には、大量のアジア人が含まれていたという。特に、オリエント

地方でも、コマゲネは多くの軍人をローマに提供したということです。コマゲネ

ではミトラ教が深く根を張っていたが、ミトラ教が影響力を持っていたシリア

のすべての部族、カッパドキア、ポントス、キリキアなどの出身の兵士も多

かったし、ローマの皇帝たちは、パルテア騎兵の機動部隊をさえ進んで登用

したということです。

 

では、なぜ、本来は、太陽神であり、契約の神であったミトラ神が兵士たちに

信仰されるようになったのでしょうか。

 

ミトラは、ゾロアスター教の教義によってヤサダ(諸神霊)の一柱に格下げ

される一方で、神格化された抽象概念の幾つかと関連づけられていたと

いうことです。

 

キュモンは、ミトラは、「戦士たちの保護者として、ウルスラグナすなわち

<勝利>の神の相棒となった。真実の擁護者として、敬虔なスラオシャ

すなわち神の法への<服従>に、ラシュヌすなわち<正義>に、そして

アルシュタートすなわち<廉直>に結びつけられた。」「彼(ミトラ)は

スラオシャとラシュヌと協力して、義しい者の魂を地獄へ落とそうと努め

る悪魔たちから保護し、天国に昇るために危険なチンワト橋を渡る許可を

与えてくれる審判の主宰者となる。このイランの信仰がミトラによる救済

という教義を生み出したのであり、それは西方で発展することになる。」

と述べています。

 

ローマ兵は一般に信心深く、職業柄、危険がつきものであったので天の加護を

求めたようですが、とりわけ、すべてが目新しい地方で20年以上も転戦した

オリエント出身者たちは、出身民族の神々についての記憶に忠実であったと

いう。こうして、カッパドキアやコマゲネから召集され、ヨーロッパに連れて

来られたミトラの密儀加入者たちは、古代世界の辺境にまで急速に広がって

いったということです。

 

かくして、軍隊は市民であれ外国人であれ、世界のあらゆる部分の人々を一緒

に結びつけ、絶え間なく将校や百人隊長あるいは部隊全体をその時その時の

さまざまな必要に応じて一つの属州から他の属州へと移動させ、そのように

して全辺境地帯に永続的な交流のネットワークを拡げることによって、オリ

エントの諸宗教をも拡げることに貢献した。そして、ミトラの流布の最も

活発な原動力は、兵士のほかには、奴隷、商人であった。戦争や交易の行わ

れる場所やアジア系移住の大きな潮流が流れ込む地域にミトラの遺物が存在

したことは、私見を証明するのに十分である、とキュモンは主張しています。

 

ローマ世界に移植されたものの、長い間、下層民の宗教にとどまっていた

ミトラス教は、やがて、富と勢力を増大させ、間もなくローマでは影響力の

ある公務員を、地方自治体では皇帝崇拝委員会や市政参事会の会員を同信の

人々の間に数えることになったということです。

 

そして、二世紀末になると、皇帝たちがミトラの密儀に対して表明していた

慎重な態度が、急に表立った指示に変わっていったといいます。皇帝自らが

入信者となり、密儀の儀式に参加するなかで、その後の後継者たちの保護が

決定的なかたちでミトラス教に与えられたというのです。

 

キュモンは、多くの君主たちこの新しい宗教への好意というものは、束の間

の流行や個人的心酔の結果ではありえず、もっと深い原因があったに違い

ないと述べています。

 

つまり、皇帝の権威は、理論上は国民に由来し、それは、もとはローマの主席

行政官にすぎなかったものが、ミトラス教の教義の中に、何とか押し付けよう

と努めていた専制君主への要求に対する支持を見出したというのです。

 

すでに、神政的統治のためには、エジプトからの現神人の思想があったが、

それよりも洗練されたものが必要であり、それを提供するのがミトラス教で

あったということです。

 

ただし、ペルシャ人は、王を神とは見なさなかったのだという。君主の栄光

はもっぱらそれがアフラマズダ―に由来し、この神の意志が彼を玉座につけた

がゆえに神聖であったのだということです。

 

この神の恩寵をアヴェスターでは、フルワナ(御稜威(みいつ))と称され

たが、ペルシャ人のこの特異な観念は、他の神話にはそれに相当するものが

なかったため、異邦人(セム人やギリシャ人など)たちはフルワナを大雑把

に<好運>と同一視したようです。

 

そして、そこに、セム系の宗教思想が重なります。カルデア人のよれば、

運命は星のまたたく天の回転によって必然的に定められ、仲間の星を支配

する輝かしい星たる太陽は、何にもまして王の星と考えられた。それゆえ、

ミトラと同一視された<敗れざる太陽神(ヘリオス・アニケトス)>は、

一般に勝利を与える配剤者と見なされたということです。

 

よって、この神の恩寵が下された君主は人々よりも上に置かれ、臣下に

よって神々と対等の存在として崇められるのであり、キュモンは、

「こうした理論がどれほど皇帝たちの主張に好都合であったかが理解

されよう。」と述べています。

 

さて、それではミトラス教の教義、典礼とは、どういうものだったの

でしょうか。

 

次回は、そのことについて触れてみたいと思います。

 
スポンサーサイト



テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

コメント

コメントの投稿

非公開コメント